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経験が言葉に醗酵するまで

2026/4/30

経験が言葉に醗酵するまで

  • # Racoosaの探究

コーチングやワークショップを終えた後、よくこのように質問します。「今日、どんなことに気づきましたか?」「どんな学びはありましたか?」。すると、多くの方が上手に答えてくださいます。的確に、整理された言葉で、その場での気づきや学びを語ってくれるのです。

でも、本当にこれで良いのだろうか? と思う時があります。

即座に意味づけることで、経験から学べることを狭めてしまっているのではないか。表層的に繕わせてしまい、何か大切なものに気づくのを阻害してしまっているのではないか。

ゆっくりと考えることへの許容度が高くない社会において、そのような問いかけが、本当に正しいのだろうかと。

芭蕉が旅から帰って五年後に書いたこと

先日、本を読んでいたら、松尾芭蕉の『おくのほそ道』についての興味深い指摘と出会いました。(以下、引用)

「芭蕉にしたって、彼が詠んだのは旅先での自然との出会いではない。芭蕉は観念が先行する人で、旅をしても風景などはさして見ていません。
『おくのほそ道』を完成させたのは、旅を終えてから五年後です。あまりに遅すぎる。全てが頭の中でというか、書斎に一回帰ってから再構成されたものなんです。」

旅を終えてから、あの俳諧紀行文が完成するまでに五年もの時間を要しました。

経験が醗酵するということ

フランスの哲学者メルロ=ポンティが、近しいことを述べています。
私たちの経験は、頭で理解される前に、まず身体に「沈殿」していく。身体は意識よりも先に世界を把握し、その経験は言葉になる前に、身体的な記憶として蓄積されていきます。

そして、この身体に沈殿した経験が、ある時、予期せぬ形で「再生」される。別の経験、別の文脈、別の出会いによって、ふいに過去の経験が新しい意味を帯びて立ち上がってくるのです。

この時間をかけた変容のプロセスを、「醗酵」という言葉で表現される方もいます。味噌や酒を作る時、素材を仕込んだらすぐに完成するわけではありません。時間をかけて、微生物の働きによって素材が変容し、まったく別の価値を持つものへと生まれ変わります。このプロセスは、急ぐことができません。

経験もまた同じではないでしょうか。素材(経験)が、時間をかけて身体という器の中で変容し、やがてまったく新しい意味として再生される。

十年かけて降りてきた言葉

私自身、この醗酵を実感してきた経験があります。例えば、30代はじめにでサラリーマンを辞めてアフリカでのボランティアにいった後、「なぜ、アフリカにいったのか?」「どんな経験だったのか?」とよく聞かれました。社交的な理由から、私は何かしらの言葉で答えていました。でも、その言葉は頭で作ったもので、腑に落ちた感覚はありませんでした。

それから十年ほど経ち、読書で見聞を広げたり、旅にでて色々な経験をしたり、さまざまな方との対話を重ねたりする中で、やっぱりこれなんだなという言葉に落ち着きました。

純粋な気持ちを 問われたかったのだと思う

この言葉は、探して見つけたわけではありません。むしろ、言葉にできないまま経験を重ね、未消化のまま寝かせておいたからこそ、ある時ふいに、身体の奥底から湧き上がってきたのだと思うのです。

発酵を待つ愉しみ

すべての経験を即座に言語化し、すぐに「気づき」「学び」として回収しようとする態度は、経験を痩せさせてしまうかもしれません。

言葉になる前の時間、身体に沈殿していく時間を大切にすること。それは決して怠惰ではなく、経験を豊かに熟成させるために必要なプロセスなのです。

「いつか学びにつながる素材を得たな」「時間をかけて発酵させていこう」

そんなふうに、経験と向き合うことも大切だと思うのです。あなたの身体が知っていることが、いつか思いがけない形で言葉になる瞬間を愉しみに待つ。

こんな時代だからこそ、その余裕を持っておきたいと思います。

自戒の念をこめて。


参考文献

  • 植島 啓司 (著), 伊藤 俊治 (著)、共感のレッスン 超情報化社会を生きる

  • モーリス・メルロ=ポンティ、『知覚の現象学 1』

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